東大阪の和菓子店。職人の技で作る自家製長崎かすてら、焼き菓子、まんじゅう、いちご大福。中甚兵衛の歴史紹介
目次
(1)中甚兵衛と今米村
(6)幕府の方針てんかん
(2)つけかえの必要性
(7)つけかえ工事
(3)甚兵衛の江戸たいざい
(8)工事が終って
(4)天井川と大洪水
(9)甚兵衛の一生 と 大和川つけかえまでのできごと
(5)つけかえ不要のけつろん
(10)大和川付け替え300年記念出版
この物語は、河内の先覚者を称えた郷土銘菓の逸品「河内甚兵衛」の商標である中甚兵衛のお話です。
郷土の歴史
を学ぶ小学校4年生にも理解出来るよう、やさしい文章で語ります。
(1)
中甚兵衛と今米村
◆みなさんは「
水戸黄門
(みと・こうもん)」のことはよく知っていますね。あのお話と同じ時代に、大和川(やまとがわ)の流れの向きを変える「
つけかえ
」という、大きな仕事に50年近くもとりくんだ「
中甚兵衛
(なか・じんべえ)」と言う人のお話をしましょう。
◆中甚兵衛が生まれたのは
1639年
。今から360〜70年も前のことです。ウサギ年でしたが、何月何日という誕生日は記録にありません。今は、生まれたときは0才で、丸一年たったら1才になるというように、誕生日がくると年がふえるので、誕生日の記録は欠かすことはできません。でも、昔はそのような風習(ふうしゅう)はなく、生まれたらすぐに
1才
、次はお正月が来るたびに年をとる数え方をしていました。生まれた月日に関係なく、みんなが元旦(がんたん)に年をとったのです。ここでは、「数え年(かぞえどし)」という、昔の年令のままでお話ししていくことにします。
◆甚兵衛が住んでいたのは、今の大阪府東大阪市(ひがしおおさかし)今米(いまごめ)という所です。近鉄東大阪線という電車の吉田(よした)駅の北側あたりになります。甚兵衛が生きていた時代は、「江戸時代(えどじだい)」と呼ばれていますが、そのころは、河内国(かわちのくに)河内郡(かわちぐん)の「
今米村
(いまごめむら)」と言いました。村人はみな農民でしたが、甚兵衛の家は
庄屋
(しょうや)といって、代々(だいだい)、村を代表する仕事もしていました。残念なことに、生まれ育ったその屋敷(やしき)はもう残っていません。今はその一角に、次のような説明が書かれた「中家屋敷跡(なかけやしきあと)」というポールが建っているだけです。
《
中家屋敷跡
》
明治末(1919年)まで、
ここに
甚兵衛
をはじめ
中家代々の屋敷がありました。
屋敷は東西二十五間(45.5m)、
南北三十間(54.5m)あり、
石垣で囲まれていました。
(平成十七年二月 東大阪市)
◆家の近くには、大和川の一つである「
吉田川
(よしたがわ)」が流れていました。今のような水道がない時代ですから、川が近くにあることは、生活するのにも便利だし、田んぼや畑をたがやすのにも都合(つごう)がよかったのです。堤防(ていぼう)の中の、ふだんは水が流れない一段高くなった所にも、畑をたがやしていました。
◆でも、困ったことがありました。それがたまに起こる
洪水
(こうずい)・
水害
(すいがい)です。10年や15年に一度という大雨が降ると、水かさがみるみるうちに増えて、堤防からあふれ出るのです。
◆甚兵衛は、自分が生まれる前の年に「吉田川の堤防が切れて大変だった」ことを、小さい頃からお父さんや村のお年寄りからよく聞かされていました。また、こうしたことが、大昔から何回もくりかえされていることも教えてもらいました。自分自身も
14才
になった時に、家の近くの堤(つつみ)が切れる恐ろしい体験をしました。
◆そこで、「どうしてこんなに洪水が起きるのだろう」とか、「どうしたら洪水が防げるのだろう」と、しんけんに考えるようになりました。お兄さんやお父さん、友達や年上(としうえ)の人にも相談(そうだん)しました。
◆18才の時、お父さんが亡くなりましたが、そのよく年、
19才
の時に、ようやく考えをまとめ、一大決心をして、おそるおそる、江戸(えど)、今の東京にある幕府(ばくふ)の役所にお願いに行きました。その考えというのが「大和川のつけかえ」だったのです。
(2)
つけかえの必要性
◆洪水を防(ふせ)ぐには、ふつうなら堤防をもっと丈夫(じょうぶ)にするとか、川底を深くしてあふれないようにするとか、といった方法を考えそうなのに、甚兵衛はなぜ、川の流れる方向を変えないとだめだと判断(はんだん)したのでしょう。
◆それをさぐるために、そのころの河内平野(大阪平野)の様子(ようす)をえがいた地図を見てみましょう。地図は上が北、下が南、右が東、左が西です。
◆今の大和川も書きこんでありますが、こいグレーの所が昔の大和川です。いく筋にも分かれていますね。昔の大和川は、今のような1本の流れではなかったのです。
◆東に
生駒山地
(いこまさんち)があって、西に海がありますが、その手前には
上町台地
(うえまちだいち)という土地の高い所があります。一方、南の方にある山地からは、なだらかな傾斜(けいしゃ)が続いています。海からの高さが柏原あたりで20m、だんだん低くなり5mを切って、
新開池
(しんかいいけ)という大きな池がある付近が一番低く、それより先、北の方へはまた、少しずつ高くなっています。この南北で一番低い新開池があるあたりの、生駒山地のふもとから西への傾斜はほとんどなく、同じぐらいの高さが続いています。
◆矢印は水の流れる方向を示していますが、西に上町台地が張り出しているために、南からの大和川や平野川(ひらのがわ)など、どれも、大坂城(おおさかじょう、今の大阪城)の北を通らないと海には出られません。また、北からの寝屋川(ねやがわ)・古川(ふるかわ)や池の水も同じ所に来ています。
◆こんなに
たくさんの水が1ヵ所に集まる
だけでも大変なのに、しかもその先は、大きな
淀川
(よどがわ)です。とくに、こんなに大きな大和川が直接、海には流れ込んでいなかったのです。
◆東から西へ、土地の傾斜がありませんから、流れにいきおいがなく、高潮(たかしお)や大雨などで淀川の水かさが増すと、
流れが止まって淀川に入り込めず
、
逆流
(ぎゃくりゅう)
する(もどってくる)
ことさえあったのです。そんな時に、さらに大雨が降り続くと、大和川はもう
あふれる
しかありません。こんな状態ですから、いくら堤防を丈夫なものにしても、大雨が降り続ければ、どうしようもありません。
◆そこで、大和川の洪水ができるだけおこらないようにするには、
淀川に流れ込むのではなく、直接、海に流す
必要があると思ったのです。それも、いくつにも分かれる前の一本の流れのままで、「一番近い海へまっすぐ流してしまおう」という考えです。これは、さきほども言ったように、南から北へ低くなっているところを横切ることになりますから、自然には絶対に流れない方向にむかって、新しい人工の川をつくるというものすごい考えです。
◆つけかえをすれば、非常に広い地域(ちいき)の田畑の作物が水害でだめになることもなくなるし、さらに、「もとの大和川や池を埋め立てて新しい田畑をつくろう」ということまで計画しました。そうすれば、「地域(ちいき)が発展(はってん)し、たくさんの税金(ぜいきん)を幕府におさめられるようになりますよ」と意見をのべたのです。
◆しかし、こうした考えも幕府が聞き入れてくれなければ、何にもなりませんし、新しい川筋の村々にとっては、とんでもないことですから、かんたんには事はすすみそうにありません。
(3)
甚兵衛
の江戸たいざい
◆初めて江戸幕府にうったえたのは
1657年
のことでしたが、やはり、すぐには意見はとりあげてもらえませんでした。飛行機(ひこうき)も新幹線(しんかんせん)も車もない時代ですから、今米の家から江戸のお役所まで出かけるのに、たとえ天候にめぐまれ、体調(たいちょう)が万全(ばんぜん)でも、片道だけで2週間はかかります。お金もいりますし、そんなに何度も往復(おうふく)することはできません。そこで、甚兵衛は江戸にとどまって生活(せいかつ)し、話をきいてもらえるまで、うったえを続けることにしました。
◆はじめて願い出てから3年後の
1660年
、やっと幕府は河内(かわち)の水害の調査をかねて、
「
つけかえ調査
」(1回目)
をしてくれました。つけかえ調査というのは、水害の状況(じょうきょう)を調べて、つけかえの必要を感じたときに、「ここに新しい川をつくるかもしれない」というしるしの、杭(くい)を打ったり、縄(なわ)を引いたりすることをいいます。
◆しかし、つけかえようとする方向にも、人が住む家が集っていたり、田んぼや畑が広がっていたりしています。新しい川がやってきたら、土地が川底になってしまうだけでなく、新たな水害の心配もしなければなりません。そこで、しるしをつけられた川筋近くの農民から、「そんなことをされたら、ひじょうにめいわくです」との強い反対意見が出ました。その結果、はじめてのつけかえの計画はすぐにとりやめになりました。
◆ところで、甚兵衛には、同じ意見をもつ仲間(なかま)がいました。実家の今米村に近い村の庄屋をしている、芝村(しばむら)の「
曽根三郎右衛門
(そね・さぶろうえもん)」(1639〜1706)と、吉田村(よしたむら)の「
山中治郎兵衛
(やまなか・じろべえ)」(1634〜1696)の二人は特に熱心(ねっしん)で、この人たちも江戸にやって来ることがあり、いっしょにお願いに行きました。
◆
1665年、2度目の
つけかえ調査
がありましたが、これも前のときと同じように、つけかえはしないことになりました
◆それから6年後、大坂(おおさか)で水害のあった
1671年の、3度目の
つけかえ調査
のときは、これまでと少し様子(ようす)がちがいました。「めいわくです」という新川筋のうったえもなかなか聞き入れてもられず、本当に工事が行なわれるかと思われたのです。先祖(せんぞ)からの土地が川底になる人の中には、乞食(こじき)になってしまうと思いこんで、死んだ方がましだと自殺(じさつ)をしたり、気が狂ったりする人もでました。このあまりのさわぎに、結局は調査をした次の年になって、またしても工事は中止になりました。
◆でも、この時につけかえをしなかったことで、このあと、たいへんなことが起こることになります。
◆甚兵衛としては、いつまでも江戸にいて一人暮らしを続けるわけにはいきませんので、この3回目の計画もかなえられないことが決まった
1672年
、お母さんの待つ今米の家にもどり、仲間といっしょに運動を続けることにしました。
◆そして、
35才
になってやっと、いとこの娘さんと結婚しました。お嫁(よめ)さんは16才という若さでした。
(4)
天井川
と
大洪水
◆さきほど、大和川は、「@
淀川
にうまく流れこめない
」ことが、洪水が起る原因だとお話しました。
◆大和川にはもう一つ、やっかいなことがありました。それは、「A
上流の山の土がもろいために、大雨が降ると土砂をたくさん運んで来る
」ことでした。
◆とくに江戸時代になると、@木材がたくさん必要となって、木をどんどん切り、根っこまで抜くようになったために、雨で山がくずれやすくなり
流れ出る土砂
(どしゃ)
がふえ
ました。また、Aできるだけ洪水の被害が出ないように、両側の堤防を切れ目のないじょうぶなものにしたために、土砂が
川底にたまりやすく
なりました。
◆甚兵衛が生まれたころには、吉田川はまだ、まわりの土地とほぼ同じ高さを流れていましたが、結婚したころには、川底は田畑よりも3メートルも高くなってしまっていました。これは、「川底に土砂がたまれば、堤防をより高いものにする」ことを何回もくり返しているうちに、川底がどんどん上がって、まわりの土地よりもずっと高くなってしまったからです。
◆そういう川を、まるで家の天井(てんじょう)の上に川が流れているようなので、「
天井川
(てんじょうがわ)」と呼んでいます。堤防はさらに高いですから、そんな所から水がどっとあふれてきたら、まるで滝(たき)の下にいるようで恐いですよね。
◆そんなおそろしいことが、じっさいにおきたのです。3回目のつけかえ計画が中止になって、わずか2年後の
1674年6月
、大和川や池のまわりの35ヵ所で堤防が切れ、淀川の堤防も1ヵ所切れました。その結果、河内平野はすべて、どろ水につかってしまうという、それまで誰もけいけんしたことのないような大洪水になりました。この年のえとがトラでしたので、「
寅年
(とらどし)
大洪水
」と呼んでいます。
◆それまでは、10年や15年に1回ぐらいしかなかった堤防が切れる水害が、それからは毎年のように続き、つけかえをのぞむ運動も大きくもりあがりました。甚兵衛らの考えに賛成してくれる村が270をこえました。
◆それでも、
4回目の
つけかえ調査
のときも、今度は反対する村が江戸まで、めいわくをうったえに行ったこともあって、またまた中止になりました。
(5)
つけかえ
不要のけつろん
◆しかし、水害が何度もくりかえしておこります。ついに、
1683年
になって、幕府は「水害をなくするにはどうしたらいいのか」、「つけかえ以外に方法はないのか」という問題に全力をあげてとりくむことを決めました。
◆まず、3ヵ月をかけて、専門家(せんもんか)も加わって洪水の原因(げんいん)などをてっていてきに調べました。
◆
5回目の
つけかえ調査
もしましたが、この時もつけかえはやめて、別の方法をとることにしたのです。
◆「
河村瑞賢
(かわむら・ずいけん)」(1618〜1699)いう人が、次の2つのことで「大和川はつけかえをしなくても洪水は防げる」という意見を出したからです。それは、「@山の木をむやみに切ることを禁止し、新しい木を植えて土砂が流れ出るのを止める。A大和川と淀川の下流(海に近いところ)の水はけをよくする(水がうまく流れるようにする)」というものでした。幕府はその意見をみとめ、河村瑞賢にすべてをまかせました。
◆それから3年をかけて、河村瑞賢の考えにしたがって、いろいろな「かいしゅう工事」を行ないました。淀川の河口(かこう)にあった島を切りぬき、「
安治川
(あじがわ)」も掘られました。
◆工事終了後は「
もう
大和川
のつけかえは必要ない
」ということになり、
1687年
からは、甚兵衛らがつけかえを願い出ることも禁止(きんし)されてしまいました。このこともあって、運動をすっかりやめてしまう村がたくさん出ました。
◆甚兵衛じしんも、つけかえを願いはじめてから30年もたっており、
49才
になっていました。このころは、50才くらいまでに亡くなる人が多かった時代ですから、運動の長さと年令から考えると、ふつうなら、ここであきらめてしまうのですが、甚兵衛はくじけませんでした。
◆河村瑞賢の工事が終っても、水はけが少しも良くならない村々が、たくさん取り残されていたからです。「このままでは、きっとまた大水害がおきるにちがいない」と心配しました。
◆ちょうどこの年、3年前の女の子に続いて、家をついでくれる男の赤ちゃんにめぐまれたことも、はげみになりました。この子どもたちが大きくなったときに、自分(じぶん)と同じ
苦しみ
や
つらい思い
をしないよう、何としても解決(かいけつ)しておきたかったのです
◆つけかえにかわる別のかいぜん案を考えだし、今まで以上に力を入れてうったえ続けました。が、何ひとつ取り上げてはもらえませんでした。
(6)幕府の方針てんかん
◆それから10年ほどして、河村瑞賢は2度目の工事を行ないました。2度にわたる工事で、幕府はもうすっかり大丈夫と思いました。河村瑞賢もこれでホッとしたのか、江戸に帰って亡くなりました。
◆ところが、甚兵衛が心配したように、このあとすぐに1700年・1701年と大水害が連続して起こりました。
◆とくに
1701年
には、今米村では、一粒(ひとつぶ)のお米もその他の作物(さくもつ)も、何も収穫(しゅうかく)できなかったとの記録が残っています。その年の収穫の量に応じて、今の税金(ぜいきん)である
年貢
(ねんぐ)をおさめていましたので、幕府の収入(しゅうにゅう)もなくなってしまいます。
◆こまった幕府は、「もうつけかえをするしかない」と考えをあらためました。それを実行するたんとうしゃに選ばれた堤奉行(つつみぶぎょう)の「
万年長十郎
(まんねん・ちょうじゅうろう)」(1647〜1715)は、甚兵衛を何度も呼びつけては意見を聞き、幕府に伝えました。
◆最後に確認(かくにん)のために行なわれた江戸の役人による
つけかえ調査
(6回目、20年ぶり)
では、新川筋の村々の訴状(そじょう)(つけかえをやめて下さいと紙に書いたもの)はもう受け取りませんでした。
◆そしてついに
1703年10月
、正式につけかえをすることが決まりました。
◆甚兵衛がはじめて江戸に行ったのは19才で、ねんがんがかなって大和川のつけかえが決まったときには、もう
65才
になっていました。幕府にみとめられるまで46年間もかかったことになります。
◆あまりの長さに、5つ年上の山中治郎兵衛は8年前に亡くなっていましたし、同い年の曽根三郎右衛門も体が弱りもう仕事はしていませんでした。元気で、本当に分かる人は甚兵衛一人になってしまっていました。
◆万年長十郎は、つけかえの準備(じゅんび)やじっさいの工事の時も、甚兵衛をずっとそばにおいて、仕事をてつだわせました。つけかえ不要が決まったときに生まれた甚兵衛の子供、「
中九兵衛
(なか・くへえ)」(1687〜1760)も工事のときは18才になっており、お父さんについて工事現場に行き、仕事を助けました。
(7)
つけかえ工事
◆つけかえ工事は、
1704年2月27日
にはじまり、
10月13日
に終わりました。機械(きかい)やトラックもない時代に、人と道具だけで、
巾180m、長さ14.3km
の新しい川をつくるのに、たったの
7ヵ月半
しかかかっていないのは、びっくりです。願いはじめから決まるまでの長い年月にくらべると、あっという間でした。
◆工事は、川下(かわしも)である堺の海の方から始めました。はじめは姫路藩(ひめじはん)だけで工事をしていましたが、ひと月ほどして、お殿さまが亡くなったので、姫路から来ていた役人はみんな引きあげました。その後は、岸和田(きしわだ)・明石(あかし)・三田(さんだ)などいくつかの藩と幕府で工事区間を分担(ぶんたん)しましたので、おたがいにスピードを競(きそ)いあうことになり、はじめの予定よりもずいぶん早く進んだのです。
◆藩や幕府は、工事にかかる費用(ひよう)を出すことと、測量(そくりょう)や現場(げんば)の監督(かんとく)をして工事を無事(ぶじ)に完成することが、おもな役目でした。実際に工事をする人は、お金をもらって働く職人(しょくにん)で、現場近くの村の家に宿賃(やどちん)をはらって泊(と)まりこみました。
◆工事が終ったあとの新しい大和川の図を見てみましょう。
◆つけかえ地点からまっすぐに海まで通せば、工事が早く済むように思えますが、実際は曲がっていますね。
◆それは、まず、人々が集って住んでいる集落(しゅうらく)や神社(じんじゃ)は出来るだけ、避(さ)けたからです。
◆また、東除川(ひがしよけがわ)を直接新川に流しこむために、高さの合う地点を選んだことにもよります。
◆下流の方で、大きな曲がりがあります。このあたりは一番土地が高く、この高台(たかだい)をどのようにしてつきぬけるかが最大の問題点でした。まっすぐ通すと多くの集落がつぶれます。そこで付近を見わたし、遠回りにはなりますが、
依網池
(よさみいけ)・
浅香山
(あさかやま)
の
谷川
や
狭間川
(はざまがわ)など、もともとある地形(ちけい)を利用して、少しでも工事を楽にすることを考えました。そのために、ここで大きく流れを曲げ、地形にそって高台を斜
(なな)
めに通すことにしたのです。
◆低く平(たい)らな土地は、田畑もそのままにして両側に堤防を築(きず)くだけでしたが、高い土地は掘りました。そのときも川巾(かわはば)全部を同じだけ掘るのではなく、まん中の半分を深く掘って川底としました
◆堤防の南側には多くの水が流れ落ちてきますので、それらを集めて流すために、新川の堤防にそって、「
落堀川
(おちぼりがわ)」を掘りました。その土は堤防に使いました。落堀川は下流で新川に流しこませました。
◆しかし、南側からの大きな川の内、西除川(にしよけがわ)や大乗川(だいじょうがわ)は、もとの流れのままでは新川や落堀川の所で高さが合わないので、流れる方向を変えるということもしました。
◆もとの大和川は、川沿いの村々がその水を生活や農業に利用することのほかに、大坂(おおさか)と大和(やまと)の間の荷物(にもつ)を運ぶ「剣先船(けんさきぶね)」が行きかう、たいせつな交通路(こうつうろ)でもありました。新川でもそれができるように、住吉(すみよし)から「
十三間堀川
(じゅうさんげんぼりがわ)」を新川まで延長(えんちょう)しました。
◆工事をしている間は、大和川の水はもとの川筋を流れていました。新しい川筋ができたあと、つけかえ地点の古い堤防をくずして水の流れる方向を変え、もとの川筋の入口をふさいで完成しました。ふさいだ所を「
築留
(つきどめ)」と呼んでいます。今、中甚兵衛の銅像(どうぞう)が建っているあたりです。
(8)工事が終って
◆工事が終ったあと、甚兵衛と九兵衛は江戸のお役所へお礼に行きました。甚兵衛は連れている息子と同じ年頃に初めておそるおそる行った時のことを、きっとしみじみと思い出したことと思います。
◆大和川のつけかえによって、旧川筋の人たちは洪水からかいほうされ、お米や作物が安定して収穫(しゅうかく)できるようになりました。また、新川でつぶれた土地の4倍近い、新しい土地が開発(かいはつ)されました。それを「
新田
(しんでん)」といい、おもに、「
わた
」の木などがたくさんさいばいされるようになりました。その「わた」から糸をつむぎ、おりものにした「河内木綿(かわちもめん)」は日本中で有名になり、大阪の発展のもととなりました。
◆けれども一方で、新しい川によって昔からの土地を失った人もいます。その人たちには同じ面積(めんせき)の土地があたえられましたが、新たに開発しなければならず、また遠い所の土地をもらっても不便(ふべん)なので、他人に売ってしまうこともありました。
◆集落のほとんどは川筋からはずされましたが、一、二の集落は川底になり、近くに引越しをしました。
◆また、一つの村や地域(ちいき)が川の北と南に分かれてしまい、不便になった所も多くありました。いつもおまいりしていた神社が川の向うになった所もあります。また、新たな洪水の危険(きけん)や、水不足になやむ村もできました。
◆河口(かこう)には砂がたまって新しい土地もできましたが、堺の港も砂で埋もれ、沖(おき)へ沖へと何回もつくりなおす結果となりました。
◆このように、全体としては大きな「
りえき
」が生まれたとしても、それが自分たちと同じ農民の「
ぎせい
」でできたことで、甚兵衛にとっては喜んでばかりはいられませんでした。また、そもそもの目的が洪水で苦しむみんなのためで、自分がもうけるためではなかったのです。
◆そこで、自分のやることはすべて終ったとして、つけかえの翌年(よくねん)、
67才
で大坂の御堂筋(みどうすじ)にあるお寺で頭をそってもらってお坊さんになりました。世間(せけん)との付き合いをなくして家にとじこもり、みんなの幸せをいのったのです。
◆お坊さん姿で腰に刀をさした
肖像画(しょうぞうが)は、
87才
の時のものです。
頭の傷あとが気がかりです。
◆そして、
1730年9月20日、92才
で亡くなりました。お墓(はか)は京都の東山(ひがしやま)に残っています。
( 大和川歴史研究家・中甚兵衛十代目 中 九兵衛(なか・くへえ) )
しつもんに、おこたえします。
メールしてください。 ⇒
jyk-naka@oct.zaq.ne.jp
(9)
甚兵衛の一生
と
大和川つけかえ
までのできごと
年
才
甚兵衛の一生 と 大和川つけかえまでのできごと
1638
-
吉田川の堤防が切れる
1639
1
河内国河内郡今米村(いまごめむら)に生れる
1652
14
吉田川の堤防が切れる
1656
18
父が亡くなる
1657
19
はじめて江戸幕府に大和川のつけかえを願い出る
1660
22
幕府が
(
第1回つけかえ調査
)
をおこなう
1665
27
幕府が
(
第2回つけかえ調査
)
をおこなう
1671
33
幕府が
(
第3回つけかえ調査
)
をおこなう
1672
34
今米村の家にもどる
1673
35
いとこの娘(16才)と結婚する
1674
36
寅年大洪水(河内平野のすべてが水につかる)
1676
38
幕府が
(
第4回つけかえ調査
)
をおこなう
1683
45
幕府が
(
第5回つけかえ調査
)
をふくむ、大がかりな調査をおこなう
1684
46
河村瑞賢の第1期工事がはじまる(〜1686)
1687
49
つけかえ不要が決まる ⇒ 運動の内容が変わる
1698
60
河村瑞賢の第2期工事がはじまる(〜1699)
1701
63
大水害で今米村の年貢なし ⇒ 幕府がつけかえを再けんとうする
1703
65
幕府が
(
第6回つけかえ調査
)
をおこなう ⇒ つけかえを決定する
1704
66
つけかえ工事がおこなわれる(2月27日〜10月13日)
1705
67
大坂北御堂で頭をそってもらい、お坊さんになる
1725
87
しょうぞう画をえがいてもらう
1730
92
9月20日に亡くなる
1760
-
8月5日に子どもの九兵衛が74才で亡くなる
(10)
大和川付け替え
300年記念出版
「
甚兵衛
と
大和川
〜 北から西への改流・300年」
著者兼発行 大和川歴史研究家・中甚兵衛十代目
中 九兵衛(なか・くへえ)
四六判 320頁 上製本 2004年1月25日初版・同6月27日第2版
2,500円+送料(代金後納:銀行または郵便局口座振込、郵送)
序 章
現在と古大和川の流れ
第一章
甚兵衛誕生から江戸出訴まで
第二章
初検分から甚兵衛結婚まで
第三章
二重堤の決壊と連続洪水
第四章
付け替え運動の終焉と新たな運動
第五章
幕府の方針転換と付け替えの決定
第六章
大和川の付け替え工事
第七章
川筋池跡の新田開発
第八章
宝永の検地と享保の再検地
第九章
甚兵衛の他界
第十章
大和川付け替えがもたらしたもの
終 章
これからの課題
各章のポイントを扉の頁に「五・七・五」で綴っています
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